神戸地方裁判所 昭和26年(ワ)697号 判決 1955年1月26日
原告 東野武七
被告 殿木孝晴
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、「被告は、原告にたいし、神戸市生田区元町通七丁目二十四番屋敷、木造瓦葺三階建家屋一棟(建坪約四五坪、二階約二四坪、三階一八・八坪)の内、三階全部(以下本件家屋三階という。)を明渡し、かつ、昭和二十五年十二月一日から右明渡しずみに至るまで、一ケ月金千四百十一円七十二銭の割合による金員を支払わねばならない。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決、ならびに、仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、「原告は、その所有にかかる本件家屋三階を、被告にたいし、賃料を地代家賃統制令所定額である一ケ月金千四百十一円七十二銭、毎月末日翌月分前払の約束で賃貸してきたところ、被告は、昭和二十五年十二月一日以降の賃料を支払わないので、原告は、同二十六年七月十四日附内容証明郵便を以て、被告にたいし、同二十五年十二月一日から同二十六年七月末日までの延滞賃料合計金一万千二百九十三円七十六銭を、書面到達後七日間以内に支払うべく、右期限に支払わないときは賃貸借契約を解除する旨の条件付契約解除の意思表示を発し、右は翌十五日被告に到達したのにかかわらず、被告は、右催告期限である同月二十二日までにこれが支払いをしなかつたので本件賃貸借契約は同日限り解除されたから、ここに、被告にたいし本件家屋三階の明渡しを求めるとともに、同二十五年十二月一日から右解除の日までの前記割合による賃料、および、解除の日の翌日から右明渡しずみに至るまで、被告の明渡義務不履行により原告の蒙る賃料同額の損害金の支払いを求めるため本訴におよんだ。」と陳述し、「被告の抗弁事実はすべて認めるが、原告の本件解除権の行使は信義則に反するものではない。」と述べた。
被告訴訟代理人は、主文と同旨の判決を求め、答弁として、「原告主張の事実はすべてこれを認めるが、原告の解除権の行使は、信義則に反し許されない。即ち、被告は、昭和七年六月以来本件家屋三階を賃借して写真撮影業を営んでおり、その間原告に至るまで賃貸人の替ること四度におよんだのであるところ、今次戦争勃発以来被告の業務も材料の不足と需要の減少によつて漸次不振に陥り、三人の子供を抱え貯蓄を喰潰して生活してきたところ、たまたま、長男が肺結核を患い、同二十五年六月から現在に至るまで入院しており、これに多額の治療費を支払わねばならなかつたため、賃料を延滞するの止むなきに至つたものであるところ、原告から延滞賃料支払の催告を受けたので被告はこれが金策のために狂奔したが、遂に催告期限までに間に合わず、四、五日遅れてやつと調達できたので直ちに原告方に赴き遅延の理由を述べて陳謝し、催告金額の全額を提供してその受領を求めたが、原告はその態度を明かにせず、その後も数度原告方に赴き右同様懇願し、更に原告の指示に従いその代理人である訴外照繁造に受領してほしいと交渉したが、結局その受領を拒絶されたので、被告は、同二十七年七月八日、原告からの催告賃料、および、催告後同二十六年十一月末日までの賃料合計金一万六千九百四十円六十四銭を、弁済のため供託したものであつて、靴材料商を営み多額の財産を有し、本件家屋の如きはその財産の九牛の一毛に過ぎない原告が、右のような事情のため賃料を延滞するの止むなきに至り、しかも、催告を受くるや金策に狂奔し、催告期限を徒過したとはいえ僅か四、五日後に提供した延滞賃料の受領を拒絶し、催告期限徒過を理由に本件賃貸借契約を解除する如きは、信義則に反し許されないといわねばならないから、原告の本訴請求は失当である。」と陳述した。<立証省略>
理由
原告主張の請求原因事実は、すべて被告の認めるところであり、被告の抗弁事実もすべて原告の認めるところである。
よつて、原告の本件賃貸借契約解除権の行使が、信義則に反するかどうかについて考えてみるに、およそ、賃借人に賃料の延滞があつた場合に、賃貸人において相当の期間を定めてその支払いを催告し、催告期限になお支払いをしなかつたときに賃貸借契約を解除し得ることが認められる所以は、かかる場合においては、通常賃借人において賃料支払義務履行の誠意が認められず、賃貸人の賃借人にたいする信頼が裏切られるものであるから、相互の信頼関係を基調とする継続的な賃貸借関係を、賃料支払義務の不履行あるにかかわらず存続せしめることは、誠意なき賃借人との契約を強いることになり賃貸人にとつて酷であるとの理由に基くものであるから、催告期間内に延滞賃料が支払われなかつた場合においても、賃借人の側に、これについて社会通念上止むを得ないと認められる事情が存在し、しかも、催告期限経過後短期間内にその提供をしたような場合においては、未だ賃借人に信頼関係を破壊するに至る程度の不誠意があつたといえないのであるから、仮令その催告期間が相当であると認められる場合においても、催告期間内に支払いがなかつたことを理由とする解除権の行使は、信義則に反し許されないといわねばならないところ、被告は、昭和七年六月以来本件家屋三階を賃借して写真撮影業を営んでいたが、今次戦争このかた材料不足と需要の減少により漸次経営不振に陥り、三人の子供を抱え貯蓄を喰潰して生活している状態であつたところ、たまたま長男が肺結核を患い、同二十五年六月以来入院し、これに多額の治療費を支払わねばならなかつたため、本件賃料を延滞するに至つたものであり、原告からの催告書到達以来、被告は、その調達に奔走したが催告期限に間に合わず、漸く期限経過四、五日後催告賃料全額を原告方に持参提供したが、結局その受領を拒絶されたので、同二十七年七月、右催告賃料、および、催告後同二十六年十一月末日までの賃料合計金一万六千九百四十円六十四銭を、弁済のため供託したものであつて、被告が、本件家屋三階を賃借して以来約二十年間、かかる延滞がなかつたであろうことは、賃貸人が替ること四度におよぶにかかわらず右のように長期間同一家屋を賃借居住している事実に徴して容易にこれを推認することができるところであつて、かかる長期間誠実に賃借人としての義務の履行をしてきたと認められる被告が、たまたま前示のように止むを得ない事情から賃料を延滞するに至つたとしても、その延滞額も比較的僅少であり、しかも、催告期間の七日間を経過すること僅かに四、五日にして延滞賃料全額を持参提供し、賃料支払いの誠意を示しているのであるから、かかる被告には、未だ本件賃貸借契約の基調たる相互の信頼関係を破壊するに至る程度の不誠意があるとは認められないところであり、従つて、右催告期限に延滞賃料を支払わなかつたことを理由とする原告の本件解除権の行使は、信義則に反し許されないといわねばならないから、適法な解除権の行使がなされたことを前提として、被告にたいし本件家屋三階の明渡しを求める原告の請求は失当である。
而して、金員請求の内、延滞賃料の請求については、前示被告のなした弁済のための供託により、既に弁済の効力が発生していることはいうまでもなく、又、被告の明渡し義務不履行を原因とする損害金の請求についても、その理由のないことは多言を要しないであろう。
よつて、被告にたいする原告の本訴請求を、いずれも失当として棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条を適用して、主文の通り判決する。
(裁判官 下出義明)